日々失われる記憶をとどめたい
お婆ちゃん子だった私は、幼い頃、祖母からいろいろな話を聞いて育った。
関東大震災で怖い思いをした話、太平洋戦争中、乳飲み子をおんぶして山に逃げた話−−純朴で世間知らずな祖母の目で見た歴史は、教科書で学ぶそれとはひと味違い、とても新鮮で真実味があった。数年前、祖母が寝たきり状態になった頃、こうした話をしっかりと書き留めなければと思い、ベッドの脇で熱心に聞き取りを行った。
しかし、次第に元気を失った祖母は、一昨年の年初に亡くなってしまった。
祖母の死は、人生最大の痛恨事であるとともに、昭和を生き抜いた人たちの記憶が日々失われてゆくという現実を深く認識するきっかけとなった。
以来、私は全国に高齢者を訪ね歩き、聞き取りを行ってきた。最初は警戒する方もいらしたが、ひとたび口を開くと、背負ってきた来し方を語る言葉に淀みはない。ときには、身内にも話していないようなことまで打ち明けられることもあった。
皆さん一様にとても喜んでくださり、辞去する際は、後ろ髪を引かれる思いに駆られた。
たとえば、秋田県で出会った行商のおばあちゃん、九嶋カツさんが忘れられない。「担ぎ屋」という職業――大きな荷物を背負って汽車に乗り、行商する。
いったいどんな暮らしをして、どんなものを扱っていたのか? どうしてもそれを知りたくなり、インターネットの情報を頼りに秋田県阿仁町を訪ねたときに出会った。
しかし、行ってはみたものの、すでに担ぎ屋の姿はなく、町の人に尋ねても、「昔はいたね」というくらいの反応。しばらく歩き回っているうちに、十年ほど前まで、町の小さな旅館の軒先に店を出していたことがわかった。さっそく宿の方に頼み込み、連絡してもらい、翌日、隣の鷹巣町で、会うことができた。
とても小柄な九嶋さんは、娘夫婦、孫たちと一緒に幸せそうに暮らしていた。さっそく聞き取りを、と思うのだが、言葉がまったく通じない。そこで、娘の郁子さんに「通訳」をお願いした。40年勤めたという行商の話は私などにはとても新鮮で、何とも楽しく、愉快な時間は今でも忘れられない。
そして、会ってそれっきりというのが苦手なので、お暇する時はいつも「では、また来ますね」と言って立ち去るのだが、九嶋カツさんにしても間もなく九十。
縁起でもないが、またお目にかかることは叶うかどうか――。
じっさい聞き取りを行った方の何人かは、その後ほどなくして鬼籍に入られた。「昭和の記憶」の捕捉は一刻を争う。
私は周囲に呼び掛け、賛同者を募り、この4月に「昭和の記憶」という名で特定非営利活動法人(NPO)として認可を受けた。現在の活動内容は、
1.高齢者からの「昭和の記憶」の聞き取り・収集・公開、2.写真や資料の収集・整理・公開、3.大学での講義や各地域での講演など、本活動の普及・プロモーション――である。
現在、こうして全国各地の高齢者から聞いた話や古い写真をデジタル化して、インターネットで公開している。さらに、こうした活動を小学生などの子供がやるように、全国的な運動に展開しようと試みている。
この活動を通じて、子供たちと祖父母や地域の高齢者との交流が活発化するだろう。当然、国や地域の歴史や習慣、伝統行事などにも詳しくなる。また、高齢者が人生において培ってきた深く豊かな知恵から、子供たちは多くを学び、聞く力、表現する力という、人生を生きていく上で大切な力が育まれるだろう。
さらにこうした活動を図書館や公民館で行い、それを教師や図書館司書が手伝えば、そのまま「総合学習」の時間に活用することも可能だ。これらの目的を実現するための、教育としてのインタビュー活動の普及・指導も、われわれの重要な使命だと考えている。その先駆けとして、都内の大学で学生を対象としたワークショップの構想が実現しようとしている。
非営利の精神に基づいたこの活動だが、経済活動と完全に無縁ではありえない。当面は、私のポケットマネーで学生などボランティアの手助けを得ての活動になるが、今後、各方面からの支援をお願いしたいと考えている。
幸いにして、活動の趣旨に賛同して下さる方が増え始めている。そうした方々からの支援や協力が、何よりの支えや励ましとなる。
ぜひ一度、ホームページをご覧いただき、感想をお寄せいただけたら幸いである。皆様からのコンタクトを心待ちにしている。
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